公益財団法人 大阪産業局

いいものを安く、速く、大量に、の強みを生かし国内の縫製産地を守る(パレ・フタバ株式会社 取締役副社長 藤井篤彦氏)

 

 

「手伝ってくれへんか?」。キラキラしたサラリーマン生活を謳歌していた藤井篤彦氏に祖父からの誘いがあったのは30歳の時のこと。「同じ知恵と労力を使うなら家業にそれを注ぎ込もう」と家業に戻る道を選んだ。だが戻って知った事業の実状は火の車。いいものを安く、速く、大量に、で生き延びてきた国産アパレルの良さに着目し、そこにデジタルや新しいメディアを組み合わせることで、第2、第3の矢を放ち、事業をV字回復に導いた。戻った当初は「しくじった」と悔やんだ藤井氏は今、「心地よさを届けて、国内の縫製産地を守る」ことをミッションに奔走している。

仕事に対する熱量を家業に注いで

Q 会社の沿革について教えてください。

A 祖父が80歳で始めた新規のアパレル事業を引き継ぎました。

母方の曽祖父がカシミアセーターの製造卸「双葉商事」を創業したのは1947年のことです。72年にボウリング場をオープンし、その後レジャー施設の運営会社として「パレ・フタバ」を分社化しました。祖父は2011年、「パレ・フタバ」の新規事業として、広島県福山市の土地・建物を購入し、自社ブランド「レジネッタ」でストレッチパンツの製造を始めました。

当時、祖父は80歳でしたが、祖業のカシミアセーター製造卸の事業が海外生産にシフトしてしまっていたため、もう一度国産アパレルにチャレンジしたいという思いがあったようです。私は2014年に「パレ・フタバ」のアパレル事業を祖父から引き継ぎました。

 

Q 家業に戻ってきた経緯は。

A 同じエネルギーを注ぎ込むなら、血縁の会社で、と。

父方は呉服店を営んでいるのですが、私はキラキラしたサラリーマン生活を送りたかったので早々に継ぎたくないと意思表示し、呉服店は姉が継ぎました。就職した大手生活用品メーカーではブランディングのため多額の予算を握る仕事を任され、毎日終電まで働いても苦になりませんでした。祖父から「手伝ってほしい」と連絡があったのは29歳のときです。仕事が趣味のような自分にとって定年もなく働ける家業は魅力的に思えました。同じエネルギーを注ぐなら、血縁の会社で頑張った方がいいんじゃないかと思いました。

任されたのは「新規事業」の立て直し

Q 家業に戻ってみていかがでしたか。

A 内情を知っていたら戻っていなかったかもしれません。

事業はどんな状況になっているか全く知らずに戻ってきました。福山の事業所にはパートさんを含め従業員が10人ほど働いていました。新規事業と言うこともあり、古参の社員もおらず皆さん前向きでした。ところが財政は火の車。3年間赤字を垂れ流し、ボウリング場の利益で補填して何とかやっていけていたのですが、つぶそうかという話も出ていたようです。事業が火の車であることを知り、おっとっと、とシビれました。内情を事前に知っていたら戻っていなかったかもしれません。

Q どのように事業を立て直していったのでしょうか。

A 高級ブランドOEMを糸口に百貨店との取引を増やしました。

「レジネッタ」というブランドでミセス向けにストレッチのきいたパンツを製造し、量販店で2900円の値段が付いていました。福山を中心とした備後地区のアパレル集積エリアは、国産ながら安く、速く、大量につくるのが得意なエリアなんです。1本ずつ丁寧につくっているんですけど、安いうえに在庫も残る。当然、利益は残りません。ただ、なぜか高級ブランド向けOEMを1つだけやっていたんです。

僕が入社する前に顧問でおられた方が商社経由でつないでくれたそうで、量販店で売る何倍もの値段が付いていました。同じものをつくってもこれだけの値段がつくなら、OEMを攻めようと百貨店の門をたたきまくりました。世にも珍しい日本製で、即納で、高級ブランドとも取引しているとアピールしたところ、2年で売上が1.6倍に増えました。

コロナ禍にマスク事業、ピンチをチャンスに

Q そのあとにコロナ禍がやってきた。

A 数週間で地獄から天国を味わいました。

順調なOEM事業のおかげで黒字転換を果たしたので工場を改装し、新たに裁断機も導入しました。OEMをさらに増やしていくぞといきこんでいたところへコロナ禍がやってきました。増やしていくどころかキャンセルが相次いだのです。

その手前で、社員が「せっかく裁断機があるのだからマスクをつくろう」と提案してくれ、準備を進めていました。OEMのキャンセルが続きやばいぞと思った数週間後にマスクをオーダーできるウェブサイトを公開したところたちどころに何千点ものオーダーが舞い込んできました。数週間で地獄から天国です。

PR TIMESを広報手段として活用したところ100万ビュー超えました。デジタルツールと世の中の流れがかみ合ったときのパワーのすごさをまざまざと感じることができました。うちは備後地区では珍しくデザイナーもパタンナーも縫製も内製化しているというバックグラウンドがあり、たまたま裁断機を導入したタイミングも重なって好機をつかむことができました。

アトツギ甲子園への挑戦

Q 30代前半までの全国の中小企業の承継予定者(アトツギ)が新規事業プランを競うピッチイベント「アトツギ甲子園」に出場されました。

A ビジネスプランを磨き上げる過程で方向性が見えてきました。

マスクの事業をさらに発展させていきたいと考えていたよいタイミングで出場することができました。他のファイナリストのビジネスプランを聞いていたら、だれが優勝してもおかしくないほどレベルが高く、そこで2位に選んでもらったことはうれしくも、もっと頑張らねばと悔しい気持ちが芽生えました。

ビジネスプランを考える過程で事業への思いが研ぎ澄まされ、自分が目指すべき方向性も見えてきました。恥ずかしくないプレゼンをしないと、と発表までにトライアンドエラーを繰り返したことも良い経験になりました。自分の中で良いテーマが見つかれば、またこういうピッチイベントにはぜひ出てみたいですね。

産地を守り、自社ブランドを新たなステージに

Q 高級ブランドOEM、マスクと来てその次は?

A 本業の自社ブランドのテコ入れに取り組んでいます。

新型コロナウイルスが第5類に移行した2023年5月以降もマスクの売上は思っていたほど落ちませんでした。マスクをすることが習慣化した人もおりこれからも一定の需要が見込めるので、そこでしっかりとシェアを伸ばしていこうと考えています。

OEMパンツの売上が落ちた時はマスクが落ち込みを上回る勢いで売れましたが、コロナ禍が落ち着いてマスクの売上が落ち始めた時には、OEMパンツの売上が思うように追いついてこず、これはまずいぞと思いました。そこで、今まで目をそらしていた本来のコア事業であるミセス向け自社ブランド「レジネッタ」のストレッチパンツ事業の再構築に取り組むことにしました。

 

 

今まで自社ブランド商品をどのような人が購入してどのようなシーンで着ておられるのかを全く把握できていませんでした。まずECサイトを通じて口コミを書いていただいたお客様に次回使えるクーポンを渡すようにしたところ非常に多くの口コミが集まり、ようやくコア事業のお客さまと向き合うことができつつあります。

活用しているのはテレビショッピング。僕自身が出演しているのですが、多い時で1日に3万本の注文があります。ネット卸では3年間ほとんど反応がなかった海外からの注文が非常に増えています。社員自ら写真を撮って売るチームが経験を重ねるにつれレベルが向上し、かっこよい見せ方を身につけた効果が大きいようです。ネット卸の売上の8割を中国、台湾、シンガポールが占めています。

 

 

Q 今後の事業展開は。

A 西日本最大級の縫製工場を買収し、国内の縫製産地を守る

生産量が増え自社の工場だけでは間に合わなくなったため、外部の工場に生産を委託するようになっていきました。委託している工場は西日本最大級の縫製工場で、うち以外にも福山の複数のアパレル会社からの生産委託も受けています。その工場から買収を持ちかけられ、M&Aすることにしました。

私がパレ・フタバに戻ってきたとき10人程度だった従業員は90人にまで増えています。国産のアパレルに挑むべく、レジネッタの事業を立ち上げた祖父は90歳になった今も毎日出社して、100歳まで頑張って国産繊維の事業で10億利益を出すと息巻いています。国内の縫製産地が減っている中、しっかりと産地を守っていきたいと考えています。

 

Q アトツギの皆さんにメッセージを

A 知恵と労力を家業に注ぐのは面白い

会社を辞めた時の給料にやっと追いつきました。サラリーマンも面白いけれど、家業があるんだったらもっと面白いよ、と伝えたいですね。父方の呉服店も今なら継いでも良かったなと思えます。今はやりの産業でなく、古き良き産業でも戦いようはいくらでもあります。同じ知恵と労力を使うなら 他人様の会社より自分の家業に使うのがいいよね、って思います。

 

【取材協力】
パレ・フタバ株式会社
〒565-0842
大阪府吹田市千里山東1丁目7番18号
HP:http://www.futababowl.jp/company

(文・山口 裕史)

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