「全日本ラリー」などモータースポーツに出走している車にトランスミッションなどの部品を供給している繁原製作所。入社してすぐにリーマン・ショックに見舞われ、債務超過に陥りながらも、迷うことなく前に進むことができたのは「うちだけしかできない唯一無二の商品を作っていたから」と5代目の繁原秀和さんは振り返る。コロナ禍の最中に経営を引き継ぎ、組織で動く会社づくりの先に目指すのは海外進出だ。
幼い頃から家業を継ぐ心づもり
Q どのような事業を行っているのでしょうか。
A 歯車とモータースポーツ、EV車用減速機を手がけています。
もともと自動車メーカーの下請けとして歯車の量産品製造からスタートしましたが、価格競争では勝てないため、次第に少量の試作品に特化していくようになりました。歯車以外のトランスミッションの設計もできることから30年前からモータースポーツのレース用ギアセットを手がけるようになりました。それが歯車の受注の波を埋めています。そこに現在は電気自動車用の減速機が加わっています。
Q もともと家業を継ぐつもりだったのでしょうか。
A 小さい頃から継ぐものだと思い込んでいました。
父から「仕事が忙しいから帰ってきてほしい」と言われたのが2008年のことです。しかし、入社してから半年後にリーマン・ショックに見舞われました。売り上げの8割を頼っていたエンジンメーカーからの受注が止まり、8億円弱あった売り上げは3年後には2億3千万円まで落ち込みました。債務超過に陥り、従業員は40人から27人に減りました。
“感性”の父と“慎重派”の自分で家業のピンチを乗り越える
Q 家業に戻った直後のピンチをどのように乗り越えていったのでしょうか。
A 自分で事業計画書を作成するうちにやるべきことが見えてきました。
銀行に今後の事業計画を説明するために、私自身が専門家や先輩経営者に教わりながら、事業計画書をまとめ上げました。そのおかげで経営や財務の知識が身につきました。その後、父の了解を得ながら、自分自身でまとめた経営計画書をもとに社員に対して経営方針説明会も開くようになりました。
社員に説明するときは何の隠し事もせず、会社の売り上げ、経費、利益の数字もすべて透明にし、ここまで利益を上げれば期末ボーナスを出すということも話しました。当時、私は営業課長の肩書でしたが、そういったプロセスを通して会社が何をやるべきかがだんだん見えてくるようになりました。
Q お父様はどのようなタイプの経営者だったのでしょうか。
A この分野が儲かりそうだと思えば投資する直感タイプです。
損得抜きで、人に喜んでもらえるからやろうというタイプの人です。困りごとを解決する中で、この分野が儲かりそうだと思ったら先に工作機械に設備投資をして、あとから営業をするので現場は苦労したと思います。繁原さんだったら最後まで付き合ってくれるという信頼をお客さんから得る中で、チャンスをもぎ取ってきました。
補助金がらみの電気自動車用減速機の話が舞い込んできたときも私はリスクしかないと考えていましたが、父には「こういうのが儲かるんや。何でもいっぺんは食べてみたらいい」と言われました。感性で動くタイプの父に対し、私はリスクがあるかどうかを慎重に見極めてから動くタイプです。父とはずいぶんと喧嘩もしましたが、その後は経営会議に出ないなど、結局、私の意見を尊重してくれました。
Q 債務超過に陥っても前を向けたのはなぜですか。
A 他社にはないことをやっているという自信です。
父のおかげでうちは他社がやっていないことばかりを手がけていました。差別化要因があれば必ずお客さんはつく、あとはお客さんをどれだけ開拓するかだけだと思っていたので、100万円のお客さんを100社作ればよいと考え、走り回りました。他の会社でもできるものをやっていたとしたらやめていたかもしれません。
コロナ禍での社長就任
Q 社長を引き継いだのはいつですか。
A コロナ禍とちょうど重なりました。
6億円まで売り上げが回復して債務超過が解消されたこともあり、2019年に父から「そろそろ交代するぞ」と言われました。そのタイミングで実務から手を引いて、10カ月間経営者としての勉強をするための研修に通いました。2020年4月に社長に就任したのですが、ちょうど新型コロナウイルスの感染拡大期と重なりました。まずは社員に全員の雇用を継続すると伝えることが私の仕事でした。3カ月間は、感染を防ぐため従業員を2グループに分けて1日おきの出勤体制にしました。
Q その後、社長としてどのようなことから取り組んだのでしょうか。
A 組織づくりから始めました。
先代の時代は「社長とその仲間たち」で、すべての社員が社長の指示に従う鍋蓋型の組織でした。組織で会社を動かせるようにと、セクションを営業、品質管理、製造1部、2部の4つに分け、それぞれにグループリーダーを置きました。そして、グループリーダーから指示命令系統が一元化できる組織づくりを目指しました。
ただ、グループリーダーもそれまでは常に現場で手を動かしてきただけにマネジメントに徹することができるまでには時間がかかり、グループリーダーを助けるチームリーダーを置くなど試行錯誤しながらも、仕組みづくりを続けています。
また、2023年には新たに設計者を採用し、5人で開発グループを立ち上げました。これまでも様々な設計開発は手がけていたのですが、しっかりと組織として立ち上げることにしました。
製造業のイメージ革新をめざして
Q その他に取り組んだことは。
A 働き方改革と人材の採用です。
今後、60~80歳代の方たちが一線を離れていくことを見据え、若い世代の人材を増やしていこうと考えました。そのためには働き方改革を進めないといけないと考え、年間休日を120日にしました。休日を増やしたことで売り上げは減りましたが、人材の採用につながっています。
Q どのような会社にしていきたいですか。
A 東大阪から製造業のイメージを革新していきたい。
繁原製作所は、もともと祖父が繁原歯車工作所を立ち上げた1968年を創業年にしており、私はそこから数えると4代目ということになっていました。ただ、初代の祖父が生まれた本籍地にもともと工場があったという話があって、最近になって専門家の方に調べてもらったところ、1929年に曾祖父と祖父が繁原鉄工所を創業していた事実が判明しました。そこから数えると創業95年で、私は5代目であることがわかりました。
私は、地元密着型で仕事をするだけでなく、東大阪の製造業全体のイメージを革新したいと考えています。そこに向けて、海外進出も視野に入れて、地元と世界をつなぐ橋渡し的な存在になりたいと思っています。
【取材協力】
株式会社繁原製作所
〒578-0973
大阪府東大阪市東鴻池町5丁目2−7
HP:https://www.shigehara.co.jp/
(文・山口 裕史)