公益財団法人 大阪産業局

「守り続けてこなかったから、続いてきた」140年の軌跡(株式会社和田萬 代表取締役社長 和田 武大 氏)

 

和田萬は、乾物商が集まる大阪・天満の地で、140年にわたってごまや乾物を扱ってきた。ごま焙煎のスペシャリストである父親と、おいしいごまを世間に伝わりやすく編集して商品化し、発信するおじが築いた財産を生かし、輸出という新たな事業を育てるとともに時流に合った商品開発で、存在感を強めている。「守り続けてこなかったからこそ長く続いてきた」。5代目、和田武大さんに、その言葉が意味するところと実践について尋ねた。

「好きなことをやりなさい」と叔父からの助言

Q 家業とはどのように向き合ってきたのでしょうか。

A 家業に就くのだろうなと、漠然とは思っていました。

仕事場と住居が一緒だったこともあり、私にとって会社は空気のような存在でした。お昼は従業員と一緒に食卓を囲んでいましたし、宿題が終われば家業を手伝うこともしばしばで、漠然とこのまま家業に就くことになるのだろうなと思っていました。ただ、大学生の時、家業の経営を担っていたおじから「家業を手伝うのもいいけれど好きなことをやりなさい」と言われ、少し肩の荷が下りました。

おじは元々、映画会社で働き、現代アートの収集を趣味にするなど多彩な人でした。「好きなことを」と言われてもすぐには出てきませんでしたが、興味があったのがメディアでした。大学ではアメフト部に所属し、戦術を担当していたこともあり、物事を論理的に考え、伝えることが好きで、新聞社が自分には合っているかなと考えるようになり、産経新聞社に記者として入社しました。

家業への取材が承継のきっかけに

Q 家業に戻ることになったきっかけは?

A 取材で家業のことを知り、興味がわきました。

中小企業は経営が厳しいイメージしかなく、継いだとしても大変そうだと感じていました。新聞社の仕事は面白く、このまま記者の仕事をずっと続けたいと思っていました。産経新聞社では外勤の記者を5年経験した後、紙面のレイアウトや見出しを考える内勤の整理部に異動しました。空いた時間に取材もしていたのですが、ある連載記事の依頼が入り、取材先を聞くと和田萬でした。

父は職人肌で仕事の話をすることはめったにありませんでしたし、母から聞く話も聞き流していたせいで、ほとんど会社の状況を知らずにいました。おじへの取材を通じて、商品づくりやパッケージを工夫したり、ほぼ輸入に頼るごまを国内で契約栽培するなどして話題づくりに努めていることを知り、興味が湧いてきました。その半年後に退職し、家業に戻りました。

新聞社に勤めたことで2つのスキルが身につきました。1つは、記者時代に培った情報収集力です。現場に出向いて、見て感じて吸収することの大切さを学びました。また、整理部で磨いた情報編集力です。記事を見やすく配置し、見出しをつける作業を通して得たもので、現在では後者の情報編集力が特に生きています。

現役の父、叔父との関係

Q 退社してすぐに家業に戻ったのですか?

A 1年半バックパッカーで世界をめぐってから入社しました。

2006年末に退職した後は、バックパッカーとして1年半、世界を回りました。大学時代から一度はやってみたいと思っていたのです。インドで1年、チベットに3~4カ月、東南アジアに1カ月ほど滞在して、帰ってきました。やりたいことができて、納得して家業に戻ることができました。

Q お父様、おじ様との関係はいかがでしたか?

A 言い合いになったときは、一歩下がることを覚えました。

父は、ごま製造の職人で今も現役です。方針をめぐって言い合うこともありましたが、ある時から、言い返すのをやめました。言い返すことでお互いカッとなってしまうと、感情が先走って本質を見誤ってしまいます。父とは、細かいことで意見の違いはあっても、会社を成長させることがそのまま社会の役に立つことだという大きな方向性で一致していることはわかっていました。「言いたいことはわかった。少し考えてみる」と一歩下がりながら、自分のやりたいことをやっていくようにしました。

おじは、私が入社して2年半後に退職しました。表向きは「定年を迎えたから」と言っていましたが、実際には譲ってくれたのだと思っています。
おじは、自分のやりたいことをやりたいタイプの経営者でしたから、自分がいることで私がやろうとしていることの邪魔になってはいけないと気を遣ってくれたと思っています。

既存の経営資源を生かした新しい取り組み

Q 社長になってどのようなことに取り組んだのでしょうか?

A おじ、父の財産を生かし、輸出に力を注ぎました。

父は、おいしいごまを作る焙煎のスペシャリストです。焙煎とは、生のごまに火を入れて、天気や温度を見ながら加減を調整して味や香りを引き出す、いわばごまに命を吹き込む仕事。どこよりもおいしいごまを作れることが当社の強みです。そしておじは、かつて業務用のみで商売をしていたところに、自社ブランドの商品開発を行い、小売り事業を確立してくれました。そして優れたプレゼン力を発揮していました。そうした2人の財産を引き継ぎ、新たに挑戦したのが輸出です。

日本人は、ごまと聞けば、何かにふりかけるか、ごまあえにするかくらいのもので、ごまに対する固定観念ができあがってしまっています。一方、海外ではごまはほとんど使われていないので、使い方を新たに提案がしやすいと考えました。展示会に出展し、高級レストランのトップシェフに「和田萬のごまはおいしいし、香りが良い」ことを知ってもらうところから始め、そのうえで現地の輸入食品会社との取引を増やしていきました。英字紙が取材に来て「世界で一番おいしいごまを売る会社」と記事を書いてもらったのにも助けられました。現在は輸出が売り上げの20%を占めるまでに育っています。

時流を捉え新たな展開を

Q 商品開発では新たなことに取り組みましたか?

A 時代の潮流をとらえ商品開発を行いました。

おじの時代は、大阪らしさを強調し、それが目を引いて、注目を集めました。私の代になってからは、食をめぐる時流の変化をとらえ、変えるべきところは変えました。わかりやすいところで言えば、アレルギー対応商品や、SDGs関連商品などを開発しました。

開発は周りのサポートがあってこそ。私が一人でやれることは限られているので、アイデアを事業化する段階でいろいろな方に協力を仰ぎました。アレルギー対応商品の一例として、グルテンフリー醤油を使った醤油味のゴマや、動物性アレルギー素材をのぞしたヴィーガン対応食品などです。

これまでの取り組みで特に印象に残っているのは、健康ブームに対応して、ごまペーストのシリーズを開発したことです。商品はどれも健康的で、スムーズな口当たりを実現しています。特に好評なのは「黒ごまラテ」で、私たちの主要商品として現在も売れ続けています。

変化し続ける世の中でベンチャーマインドを持って

Q 現在、新たに取り組んでいることは?

A 本社ビルの1階にカフェをオープンしました。

2023年3月、「IRUAERU 〈イルアエル〉 」というカフェをオープンしました。このカフェは、140年続くごまメーカーである和田萬の「世界中に本当のおいしさを届ける」という想いから誕生しました。そこにいけば、おいしいを作る誰かが「いる」、おいしい何かに「会える」に、ごまを「煎る」「和える」という言葉を掛けました。商品そのものの良さを通じて人が集まることで生まれる関係性を大切にし、買ってくださった方がより幸せにハッピーになるビジネスをしたいという思いで運営しています。

「IRUAERU 〈イルアエル〉 」にはカフェのほか、シェアキッチン、ワークショップスペースを備えています。国産ごまの栽培、収穫体験を通じて農業に触れ、ごま作りを体感していただくほか、ごまを中心にした食文化を発信するイベント、ワークショップなどを開き、「いる」「あえる」の繰り返しによって、楽しんでいただきながら人、食をつなぎ、おいしい体験をつむぎ出していきたいと考えています。

Q 140年もの間、会社が存続できた理由は何でしょうか?

A 変化し続けることが守り続けることにつながる。

なぜ続いてきたか。それは守り続けていないからです。世の中は変わっていきます。その変化に対応できる会社は存続できるのだと思います。かつてのように、経済そのものが成長していた時代と違って、今は経済が成熟してしまっています。だからこそ、ベンチャーマインドを持って変化し続けなければならないと感じています。

事業承継については、自分がした苦労を継がせたくないし、継がせることで自由度を奪ってしまうのではないかという思いがある一方で、愛情を注いで育ててきた会社に自分の一番近い人をかかわらせて真の喜びを体験してほしいという思いもあります。アトツギの皆さんが、だれしも思うことではないでしょうか。

私には中学生、小学生の息子1人、娘2人がいますが、継ぐようには言っていません。ただ、家族が家系をつないでいく意味合いにおいて、自分たちがどういう存在で、人生の中でどういうことをしているのかということについては伝えていきたいと思っていますし、そのなかで多くを占める会社の経営のことについても折に触れて伝えていきたいと考えています。

【取材協力】
株式会社和田萬
〒530-0046
大阪府大阪市北区菅原町9−5
HP:https://www.wadaman.com

(文・山口 裕史)

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